2020/02/19
イベントは温さんの「わたしの名前は導火線」という文章の朗読から始まった。
https://www.happano.org/on-yuju
この文章は、温さんの名前について書いたものだ。
温さんの名前の読み方は、日本語では「おんゆうじゅう」、中国語では「オンヨウロウ」という。
温さんの声は高くてとても澄んだ声。温さんは東京育ちだから、とてもきれいな標準語のアクセント。
でも、温さんの声で聞いた中国語の温さんのお名前は、歌のような響き。
日本語は2拍のリズムで平板な言葉、中国語は4声があって濁音がない音楽みたいな言葉。
温さんの声で温さんの響きで響きもアクセントも違う二つの言葉が発音される。
同じ人の声で、よく知っている耳慣れた言葉が、中国語読みになるときそこだけ知らない言葉になる。
そのとき、二つの言葉の世界を行き来して生きてきた温さんの言葉の世界が、ぶわって押し寄せてきてきた。
正しい言葉は一つしかないと思っていた。
自分がカナダに行ったり、日本語教師の勉強をして、そうじゃないのはだんだんわかってきた。
http://kokeshiwabuki.hatenablog.com/entry/2017/10/04/145940
日本に住んでいると「正しい日本語」を使わなければいけないという規範をとても強く感じる。
だけど、温さんのようなさまざまな言語の世界で育ってきた人の話を聞いていると、
そうじゃないということが実感もって伝わってくる。
例えば、温さんのお母さんはときどき日本語を話すとき、
中国語の表現がまじって、「電気を開く」とか「空が黒くなる」と言うことがあるそうだ。
こういう、元の言語の影響を受けるのは「母語の干渉」という。
英語でごはんを食べる動詞は「have」だけど、「食事をとる」という日本語から 「take」を使うのがその例だ。
だけど、それは日本語の表現を豊かにしているとも受け取れないか、と言っていた。
栢木さんは、日本語で漢字の読みがいろいろあるのは、中国のいろんな時代の読みを取り入れているからで、「日本語自体複雑な来歴をもった言葉だ」と言っていた。
また、移民一世はたいがい言葉で苦労する。
「訛り」が仕事や生活のハードルとなり、ときには命を脅かすこともあるという。
外国語だけでなく、日本語の中でもそれはある。
司会の佐藤靜さんは秋田の人で、旧西成瀬村では都会に出て苦労しないように標準語教育が行われていた例を教えてくれた。
http://nishinaruse.sakuraweb.com/kotoba/hojo01.html
わたしは、若いころ自分の訛りが恥ずかしいと思っていた。
わたしの地元の島では漁村と農村で言葉遣いが全然違う。
島の場所でも、例えば北と南では全然違う。
しかも、平安時代や昔の古い言葉が日常語として残っている。
祖父母はそういう古代の香りが残る言葉を話していた。
でもうちの外に出ると、年寄りの使うそういう言葉は通じないこともあって、
標準的な地元の言葉に寄せて話した。
進学で島の外に出ると「訛ってる関西弁」と言われるのが嫌で、標準的な関西弁に寄せて話した。
東京に出ると「関西の人?」と言われるたびに気後れして、関西弁自体も話せなくなった。
今思うと、「訛っている」と言われることが、自分が異物である、標準からずれていると言われているようで、いたたまれなくなっていたのだと思う。
自分にとって、新しい環境になじもうとする努力が、言葉を身につけることだったのだろう。
今思うとなんだか悲しいことだ。
恥ずかしいことではなかったのに。
でも、そうしていたのは、「正しい日本語」がどこかにあって、それを身につけなければいけないと思っていたからだろう。
そういえば、カズオ・イシグロさんがノーベル賞を取ったとき、こんなブログを書いた。
http://kokeshiwabuki.hatenablog.com/entry/2017/10/10/135906
お名前を出してないが、この文章で「台湾生まれの作家」と書いたのは、温さんのことだ。
この文章で、一つの国の中に、さまざまな来歴をもった作家がいてその国の言語で文学を書くことについてこう書いた。
「それは純粋さが失われる悪いことじゃなくて、いくつもの文化が混じり合って新しいものを生む土壌を作る、とても豊かなことだと思う。
だから、日本人や日本生まれの人以外が書いたり、日本人や日本生まれの人が他の言語で書くことも、日本語の表現や考え方を豊かにしていくことだと思う。」
今回のイベントで、それは文学だけに留まらず個人にも言えることだと気づいた。
人にはそれぞれ受け継いできた言葉の歴史があって、それは地層になってその人の言葉の中に受け継がれている。
訛りは恥ずかしがることじゃなくてその人の受け継いできた言葉の歴史だ。
人にはそれぞれ言葉の地層があって、それはその人独自のものだ。
自分の「言葉の地層」を大切にし、互いの「言葉の地層」を尊重し合うことで、言葉はもっと豊かなものになっていくはずだ。